[書評・マスコミ論評]=1 北海道警裏金事件後の新聞の自殺 警察を追及した新聞社の興亡と新聞が自殺した日

[書評・マスコミ論評]=1 北海道警裏金事件後の新聞の自殺 警察を追及した新聞社の興亡と新聞が自殺した日

◇ “おわび”要求と“裏金”と裏切りと

 特別背任、着服に追い打ちをかけるように、佐々木氏の要求状は続いていたが、佐々木氏は道新を相手取って民事訴訟を起こすことを匂わせ始めた。同年九月の「要求状」に書かれていたというが、さらに道警も、道新を相手取って「泳がせ捜査失敗」の件を訴えるという話が高田氏の耳に入ったという。また、このころ道警回りの記者が、道新の動向を逐一、道警幹部に話していた始末である。これらの“事件”を握った道警はのちに一気に道新を揺さぶりにかかる。
 十月二十日には、先の使い込み問題が全国紙で報じられることになり、ついに明るみにでた。特別背任、着服、民事訴訟の予兆、さらには着服の表面化。特に、特別背任の件は暴力団の関与の疑いが取りざたされ、道新の威厳はまさに“天から崖下”へと落ちた。また、東京の使い込みの件は、二千万円の退職金を払っておきながらうち五百万円を返納させていたことから、一気に特別背任の疑惑を深めることになった。道警は一時、事情聴取から本社、関係先への家宅捜索も検討されていた。いかんせん、道警の多くは裏金報道をめぐり、反道警で固まっていたから、現場の反発は全くなかったという。結局、この事件は役員らが退職金を“穴埋め”したことにより、刑事事件にはならなかったが、一連の“カネ”の件は連日、“カネを追及していた新聞社のカネの不祥事”として全国に報じられることになった。

◇ 折れたペンと新聞の自殺日

 平成十八年一月十四日、ついに稲葉事件の手打ちがなされた。「『泳がせ捜査』記事でおわび―裏付け取材が不足―『組織的捜査』確証得られず」。
「北海道新聞社は昨年三月十三日、朝刊社会面に『覚せい剤百三十キロ、道内流入?』道警と函館税関『泳がせ捜査』失敗」などの見出しで、道警と函館税関が平成十二年四月ごろ、『泳がせ捜査』に失敗し、香港から密輸された覚せい剤百三十キロと大麻二トンを押収できなかった疑いがあるとの記事を掲載しました。これに対し道警から『記事は事実無根であり、道警の捜査に対する道民の誤解を招く』として訂正と謝罪の要求があり、取材と紙面化の経緯について編集局幹部による調査を行いました。その結果、この記事は、泳がせ捜査失敗の『疑い』を提示したものであり、道警及び函館税関の『否定』を付記しているとはいえ、記事の書き方や見出し、裏付け要素に不十分な点があり、全体として誤った印象を与える不適切な記事と判断しました。関係者と読者の皆さまにご迷惑をおかけしたことをおわびします。北海道新聞社」。
 道新、北海道新聞が自殺した日だった。朝刊の一面をおわびに費やし、宛先のはじめは関係者で、読者はあと回し。しかしそれでも、道警は「なんであんなに小さいのだ」と納得しなかったという。その上、「これでは納得できない、記事を削除しろ」とまで迫ったらしい。読売、朝日、毎日、日経、産経と、全国紙も“道新”という鬼の首を取ったように、道警の記事の削除要求も含め、後追い報道を続けた。「カネを追及していた新聞社がカネの不祥事にまみれた末に、警察におわびした」と。この日を境に、新聞は自殺したともいえよう。北に道新ありといわれた北海道新聞社はこの日、自ら命を絶った。そして名のある全国紙も、同じくして自殺した。その後高田氏と佐藤記者の二名はけん責の懲戒処分を受けた。ペンが権力によりへし折られ、報道がそれをあざ笑った、まさに“第四の権力”の死んだ月であった。高田氏はその後、ロンドンへ異動した。

◇ 稲葉事件に関して

 前項に取り上げた函館税関と道警の泳がせ捜査の失敗は、いわゆる「稲葉事件」として知られる。元道警生活安全特別捜査隊班長稲葉圭昭警部が平成十四年七月十日に覚せい剤取締法違反(使用)容疑で道警薬物対策課に逮捕されたことをきっかけに、暴力団と癒着し、出どころのわからない「首なしけん銃」を大量に仕入れていた上に、自ら薬物を使用していた事件。
 この事件を巡っても道警本部長ほか計十三人が処分されていて、また警官一名と稲葉氏の“関係者”で逮捕された男が自殺している。平成十五年三月十七日の論告求刑公判での最終陳述で、稲葉氏自身が「銃器摘発のために道警銃器対策課と函館税関と合同で泳がせ捜査をした」。「香港ルートで石狩新港に覚せい剤の密輸入を二回見逃す代わりに銃器を摘発する約束だったが、捜査に失敗、覚せい剤が大量に道内に流入し、銃器は押収できなかった」という。
 事件を裏付ければ、道新が“おわび”する必要はなかったが、道警は関係者十三人が処分された件を取り上げた道新を許せなかったのか、今や真相はわからない。

◇ 致命打・佐々木氏の提訴

 それでも、道新に対する蹴りを入れたのは佐々木氏だった。平成十八年五月三十一日、佐々木氏は道新、旬報社、講談社と、高田、佐藤両氏を相手取り六百万円の慰謝料と本の回収、謝罪広告の掲載を求めて札幌地裁に提訴した。
 当時の訴状によると、佐々木氏は「追及・北海道警裏金疑惑」と「警察幹部を逮捕せよ」の二冊の中にある計四か所の記述が名誉棄損にあたると主張していた。
 裁判は長きにわたり続き、平成二十一年四月二十日、一審札幌地裁(竹田光広裁判長)は道新らに対して七十二万円を支払うよう命じた。平成二十二年十月二十六日には同高裁(井上哲男裁判長)が控訴棄却。平成二十三年六月十七日、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)で上告棄却。一審札幌地裁判決が確定した。
 高田氏は同年六月末、北海道新聞社を去った。しかしそれでも佐々木氏による追い打ちはあった。一審札幌地裁での審理で、道新の記者が偽証したということで、同年五月に札幌地検特別刑事部に刑事告発していた。結局不起訴となったが、佐々木氏は不起訴不当として札幌検察審査会に申し立て。結論すら出ていない平成二十五年十一月にはまたも偽証罪で同地検に告発している。「記者に偽証をさせた」という理屈だった。これも結局、不起訴となったが、“権力に盾をついた者がどのような末路を辿るか”を披露することとなった。そしてあの要求状は、この訴訟を見据えてのことだったのだ。
平成十八年一月十四日、北海道新聞社と、大手新聞社は狂喜乱舞の中で自殺した。

◇ 警察批判の鎮静化

 道警の裏金が“疑惑”の段階として浮上していた平成十五年ごろ、時同じくして高知県警や福岡県警、香川県警などでも、道警の手口とほぼ同じ手法の裏金が作られていることが明るみに出ていった。当初は西日本新聞、高知新聞など報道各社が官公庁のうち、警察の不祥事として、道警に及ばぬものの、追及を繰り広げていた。もっとも先立って追及していたのは道新“だった”が、平成十七年以降、道新の“不祥事”と取材班の解体が行われて以降、あるいはその前から取材拒否などの嫌がらせに耐えられず、各紙の追及のトーンは急速に小さくなっていった。
 ことに、道新のおわび以降、それまで明らかになっていた裏金のたった二文字でさえ、紙面を飾ることは減った。

◇ 原田宏二氏の証言と裏金

 さて、ここまで触れてきたのは道警と道新の動きだったが、本事件を語るにあたって絶対に外せないのが、原田宏二氏の存在である。
 原田氏は昭和三十二年四月、警察学校に入校し、道警の巡査に任命された。五十年には警察庁に出向、五十七年に道警に復帰すると警視に任命された。平成元年には警視正に承認し、五年には道警釧路方面本部長、六年に警視庁に昇格し、七年に道警を定年退職した、いわゆる「叩き上げ」である。在任中は機動捜査隊長、警務課長、札幌西署長、防犯部長などを歴任している。

裏金を告発する原田宏二氏(平成十五年)

 原田氏が裏金事件の存在を告発したのは、道新が裏金を追及していた平成十六年二月十日のことだった。札幌弁護士会館で、実名で顔を出し、「裏金作りは確かにあった」、「架空の事件を作り上げて、存在しない協力者に捜査報償費を払う手口だった」と告発。さらに自身も方面本部長時代に月約七万-八万の交際費を裏金から受け取っていたと話した。この当時、道警は「裏金なるものは存在しない」と否定を貫いていたから、氏の告発がなければ事態を動かすことは困難だっただろう。
 告発を巡っては、遠回しながらご注進があったようだ。氏の記事によると、会見は同日午後に予定されていて、その旨を道警記者クラブに連絡したところ、「会見は中止したほうがいい」と説得されたという。さらには会見に同席した弁護士の事務所へ行き、泣きながら「やめてください」と懇願し、果ては弁護士会館で「今からでも遅くはないからここを出よう」とご注進してきた者もいたという。全員、報道関係者だった。
 原田氏はそれを無視して、在任中の裏金の手口を告発した。正規の金の流れを記録した裏帳簿と、監査や会計検査院対策の帳簿の用意。さらには正義感の強い人物を排除するように指示した「裏金指南書」の存在などを明かしていった。
 三月四日には道議会総務委員会に参考人招致され、議会の場で裏金の全容を証言した。裏帳簿を巡っては、昭和三十九年以降に所属したすべてのポストで裏金が存在したことを話した。この裏帳簿にこそ、正規の裏金の動きが載っていて、表の帳簿には“正しい”カネの動きしか出てこない。しかし、原田証言、先の弟子屈署の斉藤証言の二つ、そして道新の気骨のあった追及がなければ、最終的に道警は裏金を認めなかったであろう。
 原田氏に告発を決意させた動機は、先の稲葉事件だという。稲葉事件は道警にとって、いわば「時限爆弾」のようなものだった。特に「泳がせ捜査」の失敗については、道警は全く調査を行わず、すべてを「道新の誤報」として使った。しかし原田氏は、そうした道警の動きを許せなかった。
 原田氏は、「稲葉事件は警察組織の抱えるさまざまな歪みが、そこに凝縮されており、また監督責任を問われるべき上層部の処分が、ほとんどないも同然で終わった点など、警察ぐるみで税金=公金を横領する『裏金作り』という犯罪と、きわめて似通った構造を持っているからだ。だからこそ私は、この事件の真実を隠蔽した道警上層部の卑劣さ、姑息さに、目もくらむような絶望と怒りを覚えるのである」とまで言及している。
 原田氏の証言は、後年にも出てくる。会計検査院が数年に一度、監査を行うことになっていたが、そもそも帳簿がすべて裏金になってしまっているため、下手を打つとすべてが明るみに出てしまう。そのため、会計検査院対策として架空の事件をねつ造し、会計書類を作成する。その事件の捜査のために北海道から東京へ出張させた“ことに”する。しかし事件自体が存在していないため、架空の捜査の筋書きを作り、検査官のヒアリング対策を行って騙したなど、まさに検査対策の全容までをも明かした。
 また、原田氏は五十年から五十七年までの七年間、警察庁に出向していたが、やはり各都道府県の警察と裏金の話を、堂々としていたという。このころ、官公庁のカネを巡る問題として、国鉄のカラ出勤や各地の市役所で発覚した給与の不正。鉄建公団のカラ出張、KDD事件などが噴出していたが、それすら気にされなかったようだ。
 裏金の告発後、原田氏の手元には多くの“手紙”が届くようになった。一例をあげると、「希代の悪徳ゴキブリ元警官原田宏二。横領した莫大な道民の税金をすべて変換し、裏切った警察からの退職年金を返上しろ」、「ヤクザでも一宿一飯の恩義に生きる、を仁義とする。然るに恩をあだで返したお前はヤクザにも劣る獅子身中の虫だ」、「友と組織を裏切った告発者の責任を取れ。さんざん甘い汁を吸いつくしたくせに、恩をあだで返した裏切り者」。こういった嫌がらせが晩年まで届いたという。原田氏は令和三年十二月十一日、この世を去った。八十三歳だった。

原田宏二氏に届いていたいやがらせのはがきなど

◇ あとがき

 長年にわたりジャーナリズムは「真実を伝える」ことが本義だとされてきた。だが、その「真実」は、時に組織の存立や、営業的な安定と正面衝突する。報道が本気で警察権力を追及すれば、道警のような“取材拒否”はどこでも起こり得る。だが、それでも抗うべきだった。抗えなかった新聞が、自らの死を認めたあの日――あれは、「真実を報じます」という、ほんのわずかの望みだった建前を、新聞自らが投げ捨てた瞬間だった。
 新聞はいつから権力に弱くなったのかという問いが昨今、インターネットで多くみられるようになった。権力者に厳しい質問を浴びせるマスコミの姿を見かけなくなって久しいのは確かだ。しかしながら、「いつからか」という問いに対して正確な答えは出せまい。徐々に“死んでいった”というのが最適解になると考える。
 例えば昭和三十四年から翌年に続いた安保闘争では、ラジオ関東の記者が殴られる、取材中の記者が機動隊員に囲まれ、カメラのネガを抜かれるなどの事件が起きたが、このころは警視庁内の記者クラブ(七社会・読売、朝日、毎日、日経、東京、共同。警視庁記者クラブ・NHK・産経ほかなど)が抗議声明を決議し、警視総監に手渡すなどの事件が起きている。それ以降も警察による取材妨害に対しては、各記者クラブが総会を開き、場合によっては検察庁への告発など、強い手段をとった。しかし昭和四十五年ごろから、警察に対して抗議を表立って行うような場面はほぼ見られなくなった。
 だが、いつごろ屈服したかの参考になる事件は昭和五十五年に起きていた。それも朝日新聞社だった。事件は愛知県警が舞台で、県警の組織的な裏金作りの手法が社会部に届いた。当時同社記者だった落合博実氏は、差出人と直接面会し、会計書類を受け取り、取材を進めていった。そしていよいよ出稿が見えてきた最終段階で、記事は葬られた。当時の編集局次長の話では、「警察にはいろいろと借りがあるんだ」。「東京国際女子マラソンでは交通規制とかで警視庁の世話になっているし、販売店の不祥事も多くてね」と。結局、記事は没になった。この話が事実ならば、昭和五十五年ごろに朝日新聞は陥落していたのだろう。
 最近の事例では、鹿児島県警の告発者を逮捕するなどの事例。愛知県警岡崎署で、罪の確定していない容疑者を百四十四時間にわたって戒具を使って拘束し、便器に顔を突っ込んで水を流し、虐待して死に至らしめる。警視庁杉並署の現職警官がタクシー強盗を起こす。千葉県警市原署の巡査が、勤務中に制服姿で、独居老人の搬送に立ち会って現金を窃取する。埼玉県警上尾署の現職刑事がスーパーマーケットで事後強盗を起こすなどの事例がある。また、警察による市民軽視も甚だしい。大川原化工機えん罪ねつ造事件では保釈が認められず関係者が獄死するなどの深刻な事件が相次いでいるし、鹿児島県警では告発者が逮捕されるなど、異常な事態が相次いでいる。しかし、それを真正面から追及し、批判した全国紙を多くは知らない。ある関係者の話では、鹿児島県警で発覚した内部告発逮捕事件を追及していた南日本新聞には読者の苦情以外にも、県警からの圧力が続いたという。「道新のことを知っているか」と。
 いわゆる「道警流」の手口は、今も全国で続いているし、道警もいまだに続けている。平成二十八年九月、NHK札幌放送局が、道警帯広署の交番で、警官の男が、女性用仮眠室で仮眠中の女性警官をのぞき見した。そのことをスクープして報道したところ、道警は「被害者感情を無視している」、「誤報だ」という二つの理由を作り、九日間の出入り禁止処分を下した。“誤報”の言い分は道新を屈服させたそれと同じで、「あくまで処分は監督上の措置であり、懲戒処分の検討は間違っている」というものだった。結局、道新の時と同じように、ほかにも表面化していないものでは、道内の大手民放が、道内の倉庫に銃器を大量に隠していたという事件を、道警の指定する解禁日より前に報じた。この件で道警はやはり出禁を下したという。
 道警の道新潰しは今も続いている。令和三年六月二十二日、道警旭川東署は旭川医大パワハラ事件の取材にあたっていた道新の二十代の女性記者を、建造物侵入の疑いで現行犯逮捕した。調べでは、この記者は同日、立ち入り禁止の看護学科棟に無断で侵入した疑い。二十四日に記者は釈放されたが、道新は同年七月七日に「記者は無断で学内会議を録音していた」、「取材手法に大きな問題があった」と検証記事を掲載することになった。この事件は単なる“マスコミ不祥事”として取りざたされたが、道警の過去の“成功体験”と、“道新は何年たっても絶対に許さない”という強い意志を感じたのは私だけか。
 さて、裏金作りの歴史も根が相当深い。元警察職員松橋忠光氏の著「我が罪はつねにわが前にあり」によれば、裏金は昭和二十年代から存在していて、やはり捜査費、捜査用報償費をねん出するために架空の事件を作り、旅費などをプールする。そのために末端の職員なども協力し、組織ぐるみでカネをごまかす。
 裏金は当然、幹部級のヤミ給与や、末端職員の飲食代などに使われる。指示系統は都道府県警察の幹部級が主導し、それを受けて会計担当者が裏帳簿の作成などの実務を行う。先の原田氏の証言と繋げれば、終戦直後から警察の“裏金”文化は伝統的に続いていたと考えるのが妥当だろう。
 最近でもカラ出張は起きている。令和五年十二月八日、広島県警は計七万四千六百円を不正に受給したとして、県警本部の警部=当時(五三)=ら三人を、詐欺と虚偽公文書作成、同行使の容疑で書類送検し、減給処分とした。県警の調べでは、令和元年から令和三年にかけ、計三十二回にわたって旅費や時間外勤務手当など計約十六万七千円をだまし取った疑い。しかし、書類送検されたのは二十件分、計約七万四千六百円分だけだった。その後広島地検は、十二月二十二日付で「情状全般を考慮した」として不起訴とした。
 さて、改めて述べたいのは、本当に警察という組織は、国民の味方なのだろうか。確かに日々、治安を守り、職務に励む姿には敬意を表する。しかしながらその裏では、架空の捜査をねつ造して旅費を横領する。そして複数の検査を挟むはずなのに、それをすり抜けてしまう。犯人でもない容疑者を逮捕すれば、記者クラブを通じてカメラマンを手配し、“手柄”として全国に報じさせる。そしてそれを誰もが「警察は仕事をしている」とうのみにする。そんな構図が出来上がってしまった。
 取材側の締め付けも、年々さらに厳しくなる一方だ。弁護士ドットコムに所属し、元毎日新聞記者の一宮俊介氏によれば、警視庁は完全に記者クラブを握っているという。例えば同庁が逮捕の方針を固めた場合、事前にレクが行われるのは当然だが、その際に“解禁時間”まで指定されるという。また同庁側が選んだ記者を捜査一課長や二課長が指名し、事前に詳細を教える“裏レク”という慣行も存在した。すると、記者は“警察から教えてもらえた”という借りを作ることになり、同庁も“アイツに貸しを作った”という大義名分が出来上がる。これだけで、権力側と報道の癒着構造が完成する。また、特に同庁は情報統制が厳しく、記事の公開、内容までをも厳しくチェックしている。さらにはネット版の配信ですら、解禁時間の指定が行われており、その時間になるまで例外なく掲載は許されない。
 取材に関しても厳しく制限されていて、原則、取材が許されるのは捜査一課長などの幹部級に統一されている。もしこの規定を破ると、「おたくはそんなことをするのか」という嫌がらせを言われるだけならともかく、質問しても何も答えないという“出禁”を受けることも珍しくないという。
 では、警察を追及できるのは誰か。答えを言えば「いない」。同氏の記事によれば、大川原化工機えん罪事件の問題が東京都議会で追及されたことがある。すると、同僚の議員から「選挙で公選法違反を狙われるからやめたほうがいい」と言われたという。警察組織は都道府県の機関であるため、それを管理、追及できるのは総務委員会や警察消防委員会に所属する議員であるが、議員ですら逆らえない状態が完成してしまった。では、頼みの綱の公安委員会はどうか。これもやはり機能していない。事実上、警察の追認機関に成り下がっているのが実情だ。

◇ 警察記者クラブへ

 私は警察記者クラブそのものを完全悪とは断じない。よく記者クラブ開放が取り上げられることがあるが、警察発表は事件、事故の情報以外にも、立てこもりや誘拐など、人命が関わる事件も発表される。外部のフリージャーナリストなどに記者証を発行することはリスクでしかないだろう。その点については一定の理解を示す。しかしながら、報道側の姿勢には多いに問題がある。ここで一つ、元共同通信記者で、社会部長まで務めた塚原政秀氏の談を取り上げたい。
 昭和四十七年、氏が名古屋支局から東京本社社会部に異動したとき、警視庁捜査一課担当になったという。共同通信なので、七社会と推察される。その当時、ある事件の発表で捜査一課長が会見でミスリードをしたという。これに対して記者たちが猛反発し、捜査一課長に強く抗議を申し入れたが、聞かなかった。これに業を煮やし、各クラブ横断で毎日行われていた定例会見をボイコットする方針を固めた。これは七社会だけでなく、全クラブ横断で決まったという。今では考えられない出来事だ。結局、二週間ほどで一課長は根を上げ、おわびが入り、会見は復活したという。
 このころは警察に対して記者クラブが抗議することも珍しくなく、昭和三十三年九月には、全学連デモの取材にあたっていた日本経済新聞と東京新聞の記者が、警視庁機動隊の隊員にスーツを破られ、暴行されてケガをした。これに対して全クラブが抗議声明を決議し、川合壽人警視総監(当時)に抗議文を手渡した。そして全国紙の紙面には「右決議する」と全クラブ連盟の抗議声明が掲載された。この警官らは告発され、書類送検された。結局不起訴になったものの、今としては考えられない出来事だ。
 さて、警察回りの記者と、記者を目指す人々に一問だけ投げかけたい。あなたたちは、先人に顔向けできるのか。警察の言いなりになり、広報のように振る舞う姿を先人が見たとき、どう思うだろうか。
 道警の裏金事件以降、報道は完全に死んだ。自殺と断言してもよいだろう。そして今日も紙面には記事が掲載される。「捜査関係者によると」。「逮捕容疑は」と。確かに昔から警察発表の語句が、読者に読みやすい形で掲載されることは珍しくなかった。警察と報道の立ち位置の逆転も、いつごろから始まったのかという明確な答えはない。自然に進んでいったという表現しかできない。
 ところで、私はマスコミを信用していない。しかしその不信の理由は、単に偏向しているからとか、嘘ばかり書いているというものではない。「権力の監視という大義名分を掲げていながら、その実権力になんら歯向かうこともできない」という事実があるから、期待することをやめたのだ。

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