「人権を尊重しつつ適正に行わなければならない」――入管法はそう書いてある。だが、その文言が実際にどこまで守られているか、牛久の現実を見れば答えは明らかだ。体調を崩し、車椅子に座ったまま十二年半も収容され続けるパキスタン人男性。医師が「飛行機には乗れない」と判断しても、出入国在留管理庁は容赦なく「強制送還」を通告する。法の名を借りた棄民処理。日本の「人権意識」がいかに冷酷なものか、牛久の壁が雄弁に物語っている▼男性はカシミール独立運動に関わり、帰国すれば再拘束の危険がある。にもかかわらず、彼の難民申請は退けられ続け、代わりに与えられたのは終わりのない監禁だった。十二年半という年月は刑務所ではなく、行政施設での収容だ。罪を裁く法廷もなければ、釈放の期限もない。入管は「保安上必要」と言い張るが、実際に保たれているのは国家の“体面”だけで、人の命の尊厳などそこにはない。牛久入管は今や、日本が誇るべき「民主国家」の裏面をさらけ出す象徴になった▼内部の環境も苛烈だ。夜になるとエアコンが止まり、真夏には熱中症で倒れる者が出る。冷暖房のスイッチすら“管理”の一部と化している。「自由を奪う」だけでなく、「快適である権利」までも奪う仕組み。罪を償う刑務所よりも過酷な現実が、行政施設の名の下に日常化している。そして、それを「法に基づいた運用」と言い換える行政の言葉の軽さ。その冷たさこそが、牛久を“日本のアウシュビッツ”と呼ばせる理由だ▼同庁が打ち出した「不法滞在者ゼロプラン」は、数字の帳尻合わせのための政策だ。難民認定率は先進国最低水準、収容は長期化し、そして体調不良者ですら「帰れ」と命じられる。もはや“管理”ではなく“処分”。この国が世界に向けて掲げてきた「人道的国家」という看板は、牛久の鉄格子の前では滑稽にすら見える。命を見捨てる行政に、どんな再発防止策があるというのか。一人の命を「統計の一桁」として処理する限り、犠牲者はまた出る▼牛久の壁の中では、今日も誰かが咳をし、誰かがうつむき、誰かが希望を失っていく。その外で、政府は「適正な運用」「人権を尊重」と繰り返す。言葉は安く、命は軽い。この国の入管行政が変わらない限り、牛久のような施設はこれからも「静かな死」を量産し続けるだろう。日本のアウシュビッツ――それは過去の比喩ではない。今この瞬間も、生きている人間をゆっくり殺している現場の名前だ。

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