八〇五〇問題。数字の並びは、いまの日本の老いと貧困の縮図である▼八十代の親が五十代の子を養う――この逆転の構図を、いったい誰が想像しただろう。就職氷河期に青春を奪われた世代が、いま親の年金にすがっている。彼らを「自助努力が足りない」と切り捨てた社会が、三十年を経て、静かに報いを受けている。政策の無策は、やがて家庭の悲劇となって帰る。放置された格差は、時間が熟成させた災厄となるのだ▼「格差なんて存在しない」「みんな満足している」と笑った政治家がいた。派遣制度を放任し、賃金を下げ競争をあおった者たちは、いま何を語るのか。就職口のない若者に「根性が足りない」と説教し、低賃金に喘ぐ者を「努力不足」と断じた声が、いま老老介護の悲鳴にかき消される▼八〇五〇問題は、単なる福祉の課題ではない。失政の積み重ねがもたらした「国家の老化現象」である。若年層を支えるどころか、彼らを「自己責任」で切り捨ててきた政治の帰結だ。かつて「貧困の再生産など起きない」と嘲った議員の言葉通り、再生産は止まった。子を持てぬまま、世代そのものが消えつつある▼親が介護を受ける年齢で、子が生活保護を申請する。子が失職し、親の年金を切り崩す。そんな家庭が珍しくなくなった。かつての「雇用の流動化」は、いま「孤立の固定化」として定着した。再就職支援の看板の裏で、氷河期世代の多くは「統計に現れない存在」になった▼人は老い、国も老いる。しかし、老いに寄り添う知恵を持たない国は衰えるだけだ。かつて国のために働けと言われ、働けぬ者は自己責任とされた。その報いが、親と子の沈黙である。消費の数字だけを追い、心の数字を見なかった政治の末路。いま問われているのは、氷河期世代ではない。あの世代を見殺しにした、この国そのものである。

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