「地検は不起訴とした。理由を明らかにしていない。」――この一文を、私たちはどれほどの事件報道で見てきただろうか。殺人、汚職、暴行、性加害、そして政治資金。人が死んでも、金が動いても、最後の一文で幕が下りる。国民の知る権利は、検察の胸三寸で止まる。そんな風景が、いつしか当たり前になった▼最高検は十一月、「社会的関心の高い事件では、不起訴の理由を積極的に公表するよう検討せよ」と全国の地検に通達した。報道はこれを「方針転換」と持ち上げたが、よく読めば「検討するよう努める」「個別判断」と逃げ道が並ぶ。つまり、“やるかもしれないし、やらないかもしれない”。制度の体裁は整えつつ、実質は従来通りというやつだ。検察が自らの行動を「説明」する気など、そもそもない。国民に説明責任を果たす意志があれば、こんな通知は不要だ▼不起訴の理由は本来、国家が「なぜ裁かないのか」を明らかにする最も重要な部分である。「嫌疑なし」なら無実を意味する。「嫌疑不十分」なら、証拠が足りなかった。「起訴猶予」なら、犯罪を認めながらも見逃した――どれも重大な判断だ。だが現実には、どんな事件でも一行で済まされる。「地検は不起訴とした。理由は明らかにしていない」。これでは正義のプロセスが、闇の中で終わる。警察の誤認逮捕も、権力者の不問も、国民には“なかったこと”になる。説明のない不起訴は、司法の死角を制度化する行為だ▼「社会的関心が高い事件」――最高検が持ち出したこの曖昧な基準も滑稽である。関心が高いかどうかを決めるのは、検察自身なのか。権力者の不祥事が「関心の低い事件」として処理される構図は、これまで何度も見てきた。政治家の裏金、企業の談合、警察官の不祥事――不起訴の理由を問えば「捜査の詳細は答えられない」。だが、一般市民が同じ罪で不起訴になれば、実名と詳細が報じられる。公平とは何か。説明責任とは誰に向けられているのか。検察が国民を見ず、権力を見ている限り、答えは出ない▼最高検は「信頼を損なっている」と言う。だが、信頼は失われたのではなく、検察が自ら手放したのだ。真実を明かさず、理由を語らず、説明しない――この三重の沈黙が、司法の権威を食い潰してきた。それでも新聞の紙面には、今日もあの一文が並ぶ。「地検は不起訴とした。理由を明らかにしていない」。この国が“説明しない正義”から抜け出す日は、まだ遠い。裁かれない権力者と、説明しない検察――その沈黙の中で、法の信頼は少しずつ死んでいく。

![[時事寸語]= 「地検は不起訴とした。理由を明らかにしていない」がなくなる日はいつか](/image/template-header.jpg)