「いいから黙って全部オレに投資しろ」。この国の首相が、海外投資家に向かってそう叫んだ――のに、笑って済ませたのは誰か。拍手を送ったのは会場の投資家だけではない。翌日の新聞・テレビも同じ調子で「人気漫画を引用して笑い誘う」「アニメ文化で親近感」と軒並み好意的に報じた。批判どころか、もはや宣伝。高市政権の言葉を“エンタメ”として垂れ流すメディアは、いまや大政翼賛会の広報部に等しい▼内閣記者会――永田町の最前列に陣取り、政権の言葉を唯一「直接」聞ける特権集団。だが、その質問は事前に調整され、幹事社の順番で回る。外国人記者やフリーは後方に押し込められ、指名されるかどうかは広報官次第。つまり、首相会見は“自由な質疑”ではなく、演出された儀式である。質問する側も、される側も、互いの台本を知っている。メディアは問いを立てるのではなく、「答えを引き出す芝居」を演じる。こうして「批判」は失われ、「説明責任」は演出へと堕した▼戦後まもない頃、内閣記者会は違っていた。吉田茂が質問を拒んだとき、彼らは声明を出して弾劾した。岸信介に抗議し、佐藤栄作の退任会見では一斉に退席した。政治家の傲慢に怒る“報道魂”がそこにはあった。だが今、権力の前で退席する記者はいない。むしろ、首相の失言を笑いに変える記事が並び、質問もせずに「支持率堅調」と見出しを立てる。マスコミは権力と戦うどころか、政権の空気を読み、忖度で飯を食う。彼らの“中立”とは、批判しないことの言い訳に過ぎない▼そして、この腐敗構造を支えるのが“会見制度”だ。会見場の最前列を独占する常勤十九社――読売、朝日、毎日、日経、NHK、そして時事・共同。彼らは権力の近くにいることで情報を得、同時に沈黙の契約を交わす。「出禁にされたくない」「幹事社を外されたくない」――その恐怖が、質問を鈍らせる。結果、官邸が投げる情報をそのまま記事にし、批判はネットに追いやられる。外国プレスや独立系記者が本質を問うと、内閣広報官は即座に遮る。それでも記者会は抗議しない。沈黙は共犯の証だ▼報道が権力の“友軍”になるとき、民主主義は死ぬ。いま、内閣記者会は政権の防波堤であり、国民の知る権利の敵である。笑う首相を称え、流行語大賞にまで仕立て上げるメディアに、もはや報道の使命はない。高市政権を批判する記事より、首相のスーツの色を語る記事のほうが多い国。質問を恐れる記者、怒らない読者――その沈黙の連鎖が、「報道自由国」をゆっくりと腐らせている。大政翼賛会は過去ではない。今この瞬間、首相官邸の記者席の前列で、拍手を送るカメラマンたちの中に息づいている。

![[時事寸語]= 大政翼賛会を支える内閣記者会](/image/template-header.jpg)