電車が止まるたびに、「ご迷惑をおかけしております」というアナウンスが流れる。乗客はため息をつき、スマートフォンを見つめ、SNSには「また人身か」「迷惑だ」と投稿が並ぶ。ニュースも同じ調子だ。運転見合わせ〇時間、影響人数〇万人、運転再開〇時。まるで天気予報のように正確で、まるで人の死ではないように淡々としている。線路に飛び込んだのは「迷惑をかけた人」であって、「死んだ人」ではない。社会は死を出来事として処理し、悲しみを効率化している▼今のニュースは「誰が死んだか」を語らない。「何時に止まり、何人に影響が出たか」だけを伝える。警察発表の定型句「自殺とみて調べています」が最後に添えられ、それで終わる。報道は、命よりもダイヤを優先する。だが、本当に「迷惑」なのは誰なのか。死者か、それとも、死を数字に変える社会のほうか。線路の上で誰かが最期の瞬間を迎えるたびに、ニュースは時間通りに流れ、我々も時間通りに歩き出す。死の痕跡は、定時運行の裏側に押し込められている▼「ひとりで死ぬな」という言葉がある。けれどそれは「迷惑だから、静かにしてくれ」という意味に聞こえるときがある。社会が「ひとりで生きる」ことを強いた結果、「ひとりで死ぬ」しかなかった人たちに、どんな言葉を投げかけられるというのか。孤独も貧困も無関心も、全部「自己責任」で片付けられる時代。死すら「個人の選択」として尊重される。だが、それは尊重ではなく放棄だ。放っておくことを、自由と呼んでいる▼王子公園、北伊丹、八丁堀、塩尻、勝川――同じニュースが毎日、別の地名で繰り返される。ホームに花を供える人はいない。運転再開の時刻だけが記録され、死者の名前も背景も消えていく。誰かが飛び込んだ日も、コンビニの新商品が話題になり、トレンドには別の話題が並ぶ。社会は痛みに慣れすぎた。死者はニュースの素材であり、私たちの時間を少しだけ奪った「トラブル」に過ぎない。まるで、死のほうが現実から逸脱した異物のようだ▼死を「迷惑」と呼ぶ国で、生を語る資格があるだろうか。働け、稼げ、我慢しろ、迷惑をかけるな――この国の倫理は、優しさの仮面を被った命令形だ。誰かが壊れるまで競わせ、壊れたら「心のケアを」と言い出す。だが、心が壊れた理由を問う者はいない。カウンセリングよりも、社会構造を見直す勇気のほうが足りていない▼電車が再開すると、車内にはいつもと同じアナウンスが流れる。「ご協力ありがとうございました」。誰もが黙って乗り込み、再び時間の中に戻る。人が死んでも、社会は止まらない。止まってはいけないからだ。だが、止まらないことが美徳になる社会は、もうどこか壊れている。死者を「迷惑」と呼び、生者を「自己責任」で縛るこの国に、いったいどんな未来があるのだろう。ホームに響く警報音が、まるで国全体の悲鳴のように聞こえるのは、きっと気のせいではない。

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