記者クラブほど、この国の報道の堕落を象徴する仕組みはない▼本来は「権力を監視するための取材拠点」。だが、実際は権力の庁舎の中に机を並べ、空調の効いた部屋で“発表メモ”を受け取る場所と化している。警察庁舎の中に設けられたクラブ室では、記者たちが“お上”の指導を受けながら記事を書く。批判すれば出入り禁止、質問が過ぎれば次の会見で無視される。公的機関の広報課と報道各社が「発表文」を共に整えるその構図は、民主主義の風上にも置けない▼「報道の自由」を唱えるメディアほど、この閉鎖的談合に深く依存している。官邸、警察、裁判所、県庁、市役所——全国に八百を超えるクラブが張り巡らされ、加盟していないフリー記者や海外メディアは締め出される。今年、鹿児島では記者クラブが知事会見からフリーランスを実力で排除した。法的権限のない任意団体が「主催者」を名乗り、県庁の公的会見を私物化したのである。だが、これを大新聞もキー局も批判しない。なぜなら、自分たちも同じ構造の中にいるからだ▼「記者会見からの排除は国民の知る権利の侵害だ」と声高に言うメディアが、フリーの排除を黙認する。政権が批判者を排除すれば糾弾し、記者クラブが同じことをしても沈黙する。この二枚舌が、日本のジャーナリズムを腐らせてきた。クラブの「公平性確保」という名目は、実際には「取材独占」の隠れ蓑にすぎない。かつて首相に単独インタビューをした局は“違反”として謝罪文を出した。まるでギルドの戒律だ。市民に向かうべき報道が、記者同士の結束と秩序維持のためにある▼記者クラブは、もはや報道機関ではない。情報を囲い込み、発表資料を“原稿”として流通させる利権構造だ。警察不祥事の続報が出ないのも、政治家の発言が検証されないのも、クラブの外に出ないからである。現場取材を放棄し、会見室に座って「オフレコメモ」をもらうだけの記者が、いつの間にか“報道”と呼ばれている▼民主主義に必要なのは、取材対象との距離であって、机の近さではない。国民に忠誠を誓うのがジャーナリズムの本義である以上、記者クラブという談合利権組織は、もはや存在自体が矛盾だ。発表を待つだけの報道は、監視ではなく従属である。知る権利を守る第一歩は、記者クラブの解体から始まる。権力と報道の蜜月を断たぬ限り、この国のニュースは永遠に官報のままだ。

![[時事寸語]= 提灯報道のための記者クラブ](/image/template-header.jpg)