かつて記者クラブは「権力の監視者」だった。吉田茂の横柄な会見を「民主主義の破壊」と糾弾し、岸信介の質問拒否には声明を叩きつけ、佐藤栄作の退任会見では抗議の退席で応えた。記事の主語は「内閣記者会」。いまのように「首相は語った」「官房長官は述べた」で始まる記事ではなく、「記者会が弾劾した」で紙面を埋め尽くした時代があった。あれは、報道がまだ牙を持っていた頃だ▼一九五〇〜七〇年代、政治と記者は火花を散らした。記者が警官に殴られることも珍しくなかった。暴行事件が起きれば記者クラブが警察を告発し、検察を動かした。暴力にも屈しない報道――それは単なる“勇気”ではなく、職能の矜持だった。政治家は記者を恐れ、官僚は言葉を選び、国民は新聞を信じた。たとえ酒席の癒着があっても、最後の一線では記者が国民の側に立っていた。報道が政治と対等に渡り合った時代、民主主義は確かに息づいていた▼いま、その面影はない。官邸の会見場では、常勤十九社が前列を独占し、幹事社が首相の前に座る。質問は事前調整、指名は内閣広報官。フリーや外国記者はくじ引きで後列に押し込まれる。幹事社は政権の機嫌を損ねぬよう「代表質問」を無難にまとめ、核心には踏み込まない。質問を遮られても抗議は出ない。退席どころか、笑顔でペンを走らせる。政府発表をそのまま垂れ流す“中継業”。それをニュースと呼ぶのが、現代日本の報道機構だ▼この劣化は、記者が連携を失ったことから始まった。かつて警視庁クラブの記者たちは、捜査一課長の虚偽説明に抗議し、全社一致で会見をボイコットした。いまなら「スクープを逃したくない」と誰かが裏切るだろう。会社間の競争が協調を壊し、メディア同士が“敵”になった。結果、政権とメディアの関係は逆転した。政治家が情報を握り、記者が許可を乞う。報道は質問する側から「呼ばれる側」へと変質した。沈黙の取材協定、忖度のニュース原稿――これが令和の記者クラブの実像である▼記者クラブ制度は、もともと政府に近づくためではなく、政府に対抗するための連帯だった。だが今や、それは権力の温室となった。記者は排他的な特権に安住し、フリーを“部外者”として締め出す。権力と報道が癒着し、国民の知る権利が犠牲になる――この構図を変えぬ限り、日本のジャーナリズムは再生しない。記者が再び「主語」になる日。首相の言葉を写すだけでなく、首相を問う勇気を取り戻すとき。沈黙を破る一行が、民主主義を再び動かす。報道とは、拍手ではなく、異議を唱えることから始まるのだ。

![[時事寸語]= 記者クラブが機能していた時代](/image/template-header.jpg)