熊本で十六歳の少年が、警察署に爆竹を投げ込んで逮捕された。報道各社は一斉に「警察署に爆竹!」「鬼ごっこのような遊び」と大見出しで伝え、現場映像まで流した。まるでテロ未遂でも起きたかのような扱いだ。だが、実際に起きたのは、早朝の駐車場に数個の爆竹を放り込んだだけの出来事。怪我人もいなければ火災もない。だが、ニュース番組のトーンは、まるで国家転覆を試みた青年の逮捕劇のようだった。少年が言った「警察官をからかって、捕まらないように逃げたかった」という言葉が、社会不安の象徴として延々と引用される。彼は無論、褒められたことをしたわけではない。だが、彼の爆竹よりも音が大きかったのは、報道のマイクのほうではないか▼「警察署に爆竹」と聞けば、ニュース価値が高そうに見える。だが、背景にはマスコミが一番喜ぶ“警察への挑戦”という構図がある。犯罪の軽重より、「警察を挑発した」という一点で過剰に膨らませる。その結果、「鬼ごっこ」が「国家への反逆」に化ける。思えば、少年のやったことは、ただの愚かな悪ふざけだ。けれど、それを「威力業務妨害」という重罪で立件し、数日かけて報じ続ける社会のほうが、よほど歪んでいる。もしこれが警察ではなく、市役所や学校に爆竹を投げた事件だったら、ニュースはここまで盛り上がっただろうか▼マスコミにとって“警察”は特別な存在だ。庁舎に火がつけば「治安の危機」、警察官が殴られれば「前代未聞の暴挙」。だが、市民が殴られたときには、同じ言葉を使わない。警察が殴る側に回ることも珍しくないのに、その報道はいつも淡々としている。暴力団や詐欺グループへの挑戦は拍手で迎え、警察への挑戦は即逮捕で終わる。マスコミの描く「正義の物語」はいつも単純すぎる。少年の爆竹よりも、社会の反応のほうがはるかに爆発的だ▼「警察をからかって鬼ごっこ」とは、まるで幼稚な戯言のようだが、よく考えればそれ自体がこの国の縮図かもしれない。権力をからかうことが、ここまでの大事件になる国。爆竹の破裂音よりも、空気の重さのほうが耳に痛い。報道は少年の「動機の軽さ」を嘲笑うが、その“軽さ”にこそ、この社会の息苦しさが滲んでいる。誰もが何かを爆竹のように投げたい気持ちを抱えている。ただ、それをやれば一瞬で全国ニュースになる国なのだ▼爆竹一つで逮捕、ニュース速報、会見、そして再発防止。どこまでが正義で、どこからが過剰反応なのか。警察への挑戦を「事件」として拡声するより、なぜ挑戦されるほど権威が肥大化しているのかを問うべきだろう。少年の愚行を笑う前に、笑えなくなっている社会のほうを見たほうがいい。結局のところ、爆竹の火花よりも危ういのは、警察とマスコミが作り出す“正義という名の炎”なのかもしれない。

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