二十年前、新聞が自殺した。――そう書くと芝居がかって聞こえるが、事実そうだった。北海道警の裏金事件を追及した北海道新聞が、道警への「おわび」を一面に載せたあの日。権力に抗う最後の矜持が、活字とともに折り畳まれた▼あれから二十年。警察批判という言葉は、報道語彙の中から静かに消えた。警察官の不祥事は「一部職員の不適切な行為」、誤認逮捕は「手続き上の不備」。かつて「警察の裏金」と書いた記者はいま、SNSで交通情報を転載している。道警だけではない。鹿児島では内部告発者が逮捕され、東京では冤罪事件が繰り返されても、どの新聞も腰を上げない。「警察から取材拒否されたら紙面が干上がる」という合理的恐怖が、見事に報道精神を骨抜きにした。記者クラブという“鎖”のもとで、批判は自粛に変わり、追及は「理解」に置き換えられた▼それにしても、警察ほど「自己正当化」に長けた組織もない。裏金の原資は税金であっても「捜査費の管理上の問題」。自白の強要は「誤解を招く言動」。容疑者死亡は「対応に不備」。すべては内部で完結し、外部の追及は「誤報」「名誉毀損」で押し返す。監督機関であるはずの公安委員会は、いまや警察本部長の発表をうなずいて聞くだけ。議会は選挙区の票を恐れ、記者は情報ルートを恐れる。こうして警察は、事実上「監視されない国家機関」として完成した。法の番人が、法の外に立っている▼だが、責められるべきは警察だけではない。沈黙を選んだ報道こそ、もっと罪深い。かつて機動隊に囲まれてもカメラを構えた記者たちはどこへ行ったのか。昭和の全学連デモで暴行された仲間を守るため、記者クラブ全体で抗議声明を出した時代があった。今のクラブが出すのは「警察発表」だけだ。権力との距離が「親密」であるほど、記事は“安定”する。皮肉なことに、ジャーナリズムの死は経営合理化の副産物として静かに完成したのだ▼警察批判が消えた国では、警察の倫理は劣化する。裏金は続き、冤罪は繰り返され、内部告発者は孤立する。それでも誰も書かない。書けば潰されることを、皆が知っているからだ。だが、報道が沈黙した社会で正義を語る資格は、誰に残るのか。二十年経った今も、私はあの日の新聞の一面を思い出す。「おわび」とだけ書かれた大きな文字。その下で、権力の笑い声が聞こえた気がした。

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