東武線の線路に、若い母子が倒れていた。列車の警笛も、秋の朝の光も、彼女たちを引き止めることはできなかった▼通勤の列に紛れた九時台のホーム。母と子が最後に見た風景を想像すると、胸の奥に冷たい風が通り抜ける。報道は淡々と「第三者の関与なし」と伝えた。だが、見えぬ“社会”という第三者が、この母子を追い詰めてはいなかったか。誰もがその答えを知っている▼「自殺」と一言でくくられるたびに、背景がこぼれ落ちる。孤立、貧困、育児の重圧、支援の不在。行政の窓口は増えたが、心に届く言葉は減った。母親が助けを求めても、電話は鳴り続け、制度は遠く、責任はどこかへ消える。「いのちの電話」がつながらない社会で、いのちを守れるはずもない▼報道各社は「運転見合わせ」「三万人に影響」と伝えた。だが影響を受けたのは、通勤客だけではない。命が失われた瞬間、社会は何かを失った。その痛みを数字に変えて報じる報道の冷たさにも、私たちは慣れてしまった。死の現場を「交通トラブル」と呼ぶ国である▼母と子の名はまだ報じられない。その匿名のまま、彼女たちは社会の統計の一部になる。だが、統計の向こうに確かにあった日常と愛情を、私たちは想像し続けなければならない。冥福を祈るとは、ただ手を合わせることではない。もう誰も、線路に希望を探さなくてすむように――社会の責任を、いま問うことだ。

![[時事寸語]= 大袋の母子の死](/image/template-header.jpg)